14042302

オープンテラスの悟り

実加子

私ね、小説を書くって、多重人格を受け入れることだと思うの。

オープンテラスの喫茶店でコーヒー飲んでて気がついたのよ。ああこれだって。でも、そのときはチラッと何かが見えたけど、言葉にできなかったの。うちに帰ってきてあのチラ見させられたのはなんだ?って考えて、じわじわとわかってきたというか、言語化できてきたの。

ほら、小説の中でいろんな人になったつもりになって、その人の言葉として台詞を書くでしょう。あれって完全に何かの憑依なのよね。「そんなこと書いてしまうんだ」って、書き終えるまで分からないんだもの。だから、いろんな人がいろんな他人の気持ちになるのは、そういう自分の中にある「自分」という枠や枷をはずしたときに現れてくるの。

私たちは「自分」という枠をはずした人を「変な人」と思うでしょう? でもそれって、ものすごい自由への入り口なのよ。だけど社会としてはそんなこと許していたら混乱してしまうから許さないだけだと思うんだ。

これが許されていたのは芝居ね。芝居をしている役者は、自分以外の何者かになるでしょう。それに没頭でき、完全に自分の殻や枷を脱ぎ捨てて役になりきれる人が名優よね。私たちはたくさんの芝居やドラマを見て、それが悪いことではないことをじっくりと学んできたのよ。だからオカマちゃんも受け入れられるようになってきたんだと思う。違うかな?

男の身体に女の心。それは自分で意図していなくてもある種の役割なの。オカマちゃんにもいろんな区別があるから一概には言えないけど、男と女を使い分ける人がいるでしょう? そういう人は自分がそういう役割でやっていることを知っているのよね、きっと。

そういうことを知った上で、人類は悟っていくの。自分という枠から生まれるエゴを超えて、次の大きな枠、たとえば民族とか、地球全体の視点とか、そういうところに飛躍するための準備としての悟り。

地球全体の視点にはまだたどり着くのには時間がかかりそうね。だって、私たちは動物の気持ちにすらならないでいるんだもん。きっとこれから、そういう人が増えてくるんだろうなぁ。

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