sunrise01

人の数だけ世界があると考えてみる

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僕はどんなに考えても他人にはなれない。だけど他人の気持ちになってみることはできる。

他人の気持ちになるというのはどういうことなのか?

チベット密教に曼陀羅とする瞑想がある。曼陀羅を見ながら、そこに描かれている菩薩や如来に同調する。そのとき自分は何を感じるのか? それを感じることで、環境や立場によって見えてくる物事が変わることを体験する。そういうことを何度も体験することで、自分がもしかしたら誰にでもなれる可能性を持っているかもしれないことを体感する。

このような修行は、それ以前にいくつもの前提を得た上でないとできないものだった。ところが最近では、修行ではないが、他人の気持ちになるための仕組みがたくさんできている。たとえば、小説、演劇、映画、テレビドラマなど。演劇の歴史は古いが、一度にたくさんの人が見られた訳ではなく、見ることのできた人は限られ、しかも年に多くても数回のことだっただろう。いまではその気になれば一日中でも見ていることができる。この頻度の高さが、他人の気持ちに共感するための訓練になっているのではないか。さらに、演劇や映画など、さまざまな役の気持ちに同調することで、同じ現実でも感じることは違うことがありありと体験できる。このことが人の共感能力を高めていると考える。

同じ世界でも、自分の立場や境遇が違えば、見ること、感じることが違うだろうなと推測することはあまり難しくない。つまりその気になれば、立場の違う人に共感できる素地を僕たちは持っている。このことが認められるのであれば、各個人が見ている世界は違うものということに同意してもらえるだろう。

この世界は戦いの場だと思う人がいれば、楽しく生きていく場所と考える人もいて、中にはあるときは戦いだが、あるときは楽しいと思っている人もいるだろう。

戦いの場だと思っている人が、楽しく生きていく場所だと考えている人に話をしても、なかなか噛み合ない。そういうときは、前提を互いに確かめて、互いに前提の歩み寄りをしなければならない。だから、いつも戦いの場だと頑張っている人もいないし、いつも楽しく生きていく場だと考える人もあまりいないのだろう。そのときどきで前提が変わり、世界の見え方が変わり、ものの感じ方が変わる。

つまり、僕たちが感じている世界は、人の数以上にある。

話すことによって互いの前提とする共通の世界をそこに生み出し、それについて語り合う。しかし、その世界を完全に共有している訳でもなく、なんとなく共有できている感じの世界を互いに作っているから、その作業を通して、新たな世界をふたつ生み出すことになることもある。

僕たちはかなりいい加減だ。いい加減でないと他人と話はできない。厳格にやろうとすると、哲学の授業のようで、ちっとも面白くない。このファジーな感じが、実は大変大切なことなのではないか? 生きている細胞は、その環境との物質的やり取りを必ずしている。言葉や概念も、与えられた環境内でやり取りすることで、その存在を保っているのではないか?

 

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