知りません

「俺、もうだめかもしれない」
 僕より年上の、大のおとなが目の前でしょげている。
 「そんなことないですよ」とは言ったものの、状況は深刻だ。
 いきさつは知らないが、信田(のぶた)さんは奥さんと離婚係争中だ。それだけならよくある話だが、信田さんは奥さんに向かって言ってはならないことを言ってしまった。それさえなければただの離婚なのに。
 信田さんは豪放な人だ。それがよく働くときと悪く働くときがある。よく働くときは何事もうまくいく。しかし、一度歯車にゴミが入ると、全体が急に軋んで動かなくなる。いまは軋んだ状態だ。

 数年前ひとに紹介され、仲良くなってあるバーに連れて行ってもらった。
「この近くでは一番の美人ママだ」
 そう紹介してもらったママさんは確かに美人だった。そこにふたりで何度も通った。信田さんは先輩なので素直におごってもらった。まだ一作も書いてない僕という作家を見込んで、先行投資だと言っていた。
「ほーちゃんは絶対いい作家になる。俺が保障する」と酔ってくると言っていた。
 ママさんは信田さんのことを「ノブちゃん」ととても親しげに呼んでいた。水商売の人は男をその気にさせるのが仕事だ。その親しげな言葉のどこまでが本気かはわからない。甘い声を出すのはお仕事だ。一方ノブちゃんは、店が混み出すと静かに帰っていく。それがママさんへの礼儀だと思っていた。
「今日来てた奴ら、みんなママさんが目当てだ。いやらしいな」
「マジで焼きもち焼いてますね」
「当たり前だ。もっと客は遠慮しなけりゃならん」
 そんな会話を帰りがけに何度もした。そして奥さんとは別居して一人で暮らしているマンションにタクシーで帰っていった。

 つい一ヶ月ほど前、別の店で打ち明けられた。
「ほーちゃん、俺さ、ママと寝ちゃった」
「えっ? あのママさん?」
「そう、あのママ」
「いいですね。僕にも分けて下さい」
「どうやって分けるんだよ」
 とても機嫌がよかった。まさかそういう関係になるとは思っていなかった。そしてこう言った。
「結婚しようかな」
「えっ? 前の奥さんとは離婚できたんですか?」
「まだなんだよ」
「ばれたら大変でしょう」
「そうかな、やっぱり」
「やっぱりじゃないですよ。ひどい目に遭いますよ」
「早く離婚しよう」
「結婚を考えるのはそれからですね」
「えー」
「えーじゃないの」
「ほーちゃん冷たい」
「冷たくないですよ。当たり前でしょう」
「前の奥さんの生きがいは、いまや僕をいじめ抜くことだからね。そう簡単に離婚してくれないんだよ」
「そうなんですか。でも仕方ないでしょう」
「仕方ないって言い方嫌い」
「信田さんが嫌いでも仕方ないです」

 それから二週間ほどして電話がかかってきた。
「ほーちゃん、ちょっと話があるんだ、うちの会社に来ない?」
 さっそくでかけていった。会議室に通されたので仕事の話だと思っていた。
「実はさ、離婚することになった」
「それはよかったですね。おめでとうございます」
「ところがさ、めでたくないの」
「どうかしたんですか?」
「あいつがさ、あなたなんかもうどうせ結婚できないんだから、別れない方が身のためよ、みたいなことをいうからさ、つい言ったんだよ」
「ママさんのこと?」
「そう」
「やばいでしょう」
「うん。離婚の理由は僕の不貞ということになり、給料をぜんぶ持っていかれることになった」
「全部?」
「正確にはほとんど。家賃を払ったら何も残らない」
 言葉が出ない。
「どうしたらいいかな?」
「どうしたらいいんでしょうね?」
「ママさんとこ行ってさ、結婚して下さいって言ったら断られた」
「は? 奥さんとの事情は話したんですか?」
「全部話した」
「それで結婚してくれって言ったんですか?」
「そう」
「そりゃ無理でしょう」
「やっぱり」
「離婚の件がなくても結婚してもらえるかどうかはわからないでしょう? それに離婚の件が乗っかれば、まず断るのが賢明ということですよ」
「そうかな」
「気持ちはわかりますけど、それは無理ですよ。ママさんも困ったでしょう」
「困った顔していた」
「もしいい返事があるにしても、よくよく考えないと」
 そこからしばらく沈黙が続いた。
「俺、もうだめかもしれない」
「そんなことないですよ」
 とは言ったものの、確証がある訳ではない。何をどうすればいいのかもわからない。
 ふたりでそば屋でそばを食べて帰った。

 昨日、電話がかかってきた。相手は、信田さんと同じ会社の、僕に信田さんを紹介してくれた人。
「もしもし、宝生さんですか?」
「はい」
「○○です。信田が亡くなったこと、ご存じですか?」
「えっ?」
 いろんなことが頭を駆け巡る。
「お葬式は?」
「もう終わりました。連絡が遅くなってすみません。宝生さんは葬儀にいらっしゃると思っていました。確認すればよかったですね。お見かけしなかったので電話したのです」
「なぜ亡くなったのですか?」
「知りません。お宅で発見されたようです」
「自殺でしょう?」とのどまで出てきた言葉を飲み込んだ。もし自殺なら、どうしてそれを止められなかったのか。
 連絡ありがとうと伝え、電話を切った。
 なぜこの二週間のあいだに連絡を取ったり、会いにいったりしなかったのか。
 しかし、本当に自殺かどうかはわからない。気を病んで、からだも蝕まれてしまったかもしれない。でも、後悔が残る。
 夜になってママさんのバーに行った。開店前に着き、入口で待つ。
「あ、宝生さん」
「信田さんのこと、聞きました?」
「はい。まぁ、お店に入って下さい」
 ドアの鍵を開け入る。まだ暗い店内。酒と煙草の鎮まった匂い。ライトがパチンと点けられる。
「亡くなった理由をご存じですか?」
 換気扇の音が聞こえて来た。
「知りません」
「普通誰かが亡くなったらその理由を聞きませんか?」
「私も聞いたけど、誰も答えてくれませんでした」
「そうですか」
 なんと言おうか躊躇したが、ストレートに言った方がいいような気がした。
「僕は自殺したんじゃないかと疑っています。なぜなら、奥さんとの離婚の件を知っているから」
 ママさんは固まってしまった。
「そしてママさんにプロポーズしたことも聞いています」
「ああ」とママさんは何か言いかけた。
「責めるつもりはありません。断るのが当然です。そしてその状態で自殺されたら困りますよね」
 ママさんはうつむいたままだ。
「バーボンをストレートで下さい」
「えっ?」
「バーボンをストレートグラスに注いで下さい」
 バーカウンターにバーボンを注いだストレートグラスが置かれた。それを一気に呷る。
「信田の馬鹿野郎!」
 大声で叫んだ。そしてグラスをカウンターにカツンと置いた。
 ママさんは驚いて目を見開いた。目が合うと横を向いた。
「ママさんも飲んで下さい」
「いいの?」
「おごります」
「ありがとう」
 ジムビームをストレートグラスにトクトクと注ぐ。
「信田の馬鹿野郎と叫ぶんだ」
 ママさんは両手でグラスを持ち、一度に全部飲んだ。
「信田の馬鹿野郎」
 ママさんの声はかすれていた。涙がこぼれた。笑いながら泣いていた。
「今度は一緒に叫びましょう。もう一杯ずつ注いで下さい」
 ふたつのグラスがカウンターに並んだ。
「せーの」と間合いを合わせてバーボンを呷る。
「信田の馬鹿野郎!」
 ママさんも今度は大きな声が出せた。
 泣きながら笑った。いや、笑いながら泣いたのか。

 しばらくして、ママさんのバーに客が入ってきたので別れを告げて外に出た。
 いつもふたりで歩いた飲屋街の雑然とした路地。
 信田さんの声を思い出す。
「俺、もうだめかもしれない」
 その言葉に僕は「そんなことないですよ」と答えたが、信田さんの耳にはきっと違って聞こえたことだろう。
 「知りません」と。