ボルネオの魂

ボルネオの母と呼ばれる女性が、ボルネオ島の山奥深くにいると聞き、取材に行くことになった。オランウータンと暮らしているのだが、その暮らし方が普通ではないとのこと。編集者と通訳を兼ねた現地コーディネーターと一緒に、山奥に分け入ることになった。車である程度行ったが、そのあとは山道を二日歩くという。テントを背負って歩いて行った。

途中、木々に覆われてよく見えなかったが、崖があり、その上から幼い女の子と男の叫び声が聞こえた。コーディネーターが大声で問いかけた。
「どうしたのですか?」と聞くと「娘が崖から落ちそうらしい」という。
「助けに行きましょう」と言ったら、コーディネーターは「面倒に巻き込まれますよ」という。その言葉を無視して、僕と編集は崖の上に向かう道を探して走り出した。

きっとこれが崖に上がるだろうと思える道を見つけ上がっていく。30分くらいかかっただろうか。息を切らしてやっと崖の上にたどり着くというときに、女の子が叫びながら落ちていったのがわかった。高い叫び声が遠のいていった。

崖のふちには男がうつ伏せになって動かないでいた。言葉がわからないので男の肩を軽く叩いた。すると、男は起き上がり、崖のふちに座った。腕が小刻みに震えていた。

男は黙って立ち上がり、崖から僕たちが通ってきた道を下へと降りていく。僕と編集もついていった。崖の下には人々が集まっていた。一人の女の腕に、傷だらけの顔の幼い少女が抱かれていた。グッタリとしている。男の顔を見て女は、首を横に振った。男は泣き崩れた。

男と女はその娘の親だった。コーディネーターが来て言った。
「明日儀式をするので朝に来いとさ」
「どんな儀式?」と聞くとコーディネーターは「知らない」という。そして「面倒に巻き込まれたな」とも。

一人の男が近づいてきて何か言った。コーディネーターが通訳する。
「あなたたちは目撃者だ。明朝何が起きたのか話してくれ」
その男は村長だそうだ。
仕方ないのでテントを広げ、そこで一泊した。

翌朝、集会場に行くと、七、八十人の村人が円陣を組んで座っていた。真ん中に昨日の父親、その隣には顔に彩色を施したいかにもシャーマンという老人がいた。父親のそばに母親と、恐らくその子供らしい子達が並んでいた。僕たちは導かれて円の中心に近いところに座らされた。

コーディネーターに「これはお葬式か?」と聞いたが、「知らない」という。雰囲気的には裁判かもしれないと思った。不安を抱えて様子を見た。

シャーマンが語り出した。みんながうなずく。父親が何かを語り、母親も何かを語った。シャーマンがまた何かを語り、こちらを見た。コーディネーターが言った。
「何を見たか言いなさい。通訳して伝えます」
僕は立ち上がり、見たことを順を追って言った。次に編集者が促されるが、「同じことを見ました」で済ませた。
通訳が訳し終えると村の人々が口々に何かを言い始めた。母親も何かを言っていた。父親を責めているようだった。

シャーマンが杖を高く掲げると、人々は黙った。シャーマンは何かを語った。その語りはみんなの心に染みわたっていくようだった。深い沈黙が訪れた。

最後に父親が何かをポツリと言った。すると場の雰囲気が明らかに変わり、シャーマンが歌い出した。一節終わると村の人々が一斉に歌い出す。聞いたことのないハーモニーだった。鳥肌が立った。美しいが聞いたことのないハーモニー。それが一瞬途切れると、遠くからサルや鳥の鳴き声が聞こえる。呼応しているようだ。
再びハーモニーが始まり、また一瞬の静寂。サルや鳥の呼応。こんなハーモニーが聞こえてきたら、確かにどんな生物も何か反応したくなるだろう。やがてハーモニーは静かに終わり、サルや鳥の呼応も聞こえなくなった。

村の人々は立ち上がり、三々五々散っていった。

両親と家族は残り、シャーマンと何か話している。

コーディネーターに「これは何をしたのですか?」と聞いた。すると「儀式だ」としか答えない。説明してくれと何度も頼むが答えてくれない。編集がとても流暢な英語で説き伏せた。

するとコーディネーターは渋々こう言った。
「儀式の最初にシャーマンがこう言った。今日の儀式は終わったらすみやかに忘れること。約束できるか?と。それでみんなは約束した」
コーディネーターは僕たちふたりの目を見つめて訊いた。
「忘れると約束できるか?」
「なんでそんなこと約束しなければならないのか」と思ったが、約束した。すると続きを話しだした。

「まず、シャーマンは両親の話を聞き、同じことが起きたのかとあなたたちの話を聞いた。ほぼ同じことを答えたので両親が言ったことは認められた」
「じゃあ、これは裁判だったのですね?」
「それとはちょっと違う」
「じゃあなんですか?」
コーディネーターは困った顔をしたが、こう続けた。
「起きたことはこうだ。父親と娘は薬草を採りに崖の上に行った。息子が病にかかり、その薬草を得ようとした。しかし、娘が足を滑らせて崖から落ちそうになる。それを父親が捕まえて助けようとしたが、できなかった。村の人々は口々に死んだ娘がいかに素晴らしい娘だったかを語り、助けられなかった父親を責めた。そこでシャーマンはこんなことを言った。

美しい魂が旅立った。いまは向こうの世界とこちらの世界のあいだにいる。本当ならまだこちらの世界にいるべきだった魂だ。彼女はここに、お前たちと一緒にいたいと思っている。

そこで相談だ。父親はとても寛大でいい人だと村のみんなが知っている。娘が死んだのは精霊たちの思し召しだろう。娘はあの世とこの世のあいだにとどまり、父親を助け、母親を助け、家族を助けるだろう。そしてもし、父親が許すなら、父親と一緒に、この村を助ける大いなる魂になるだろう。

そのためには、父親は私(シャーマン)とともに、修行しなければならない。村の人々に尽くさなければならない。父親が向こうの世界に行くまでだ。それを受け入れるか?

父親はしばらく考えてそれを受け入れた。歌が歌われて終わった。

これで私は約束通り、今朝起きたことを忘れる。二度とこの話はしない」

そう言ってコーディネーターは沈黙した。

この体験はボルネオの母のインタビューより、僕の心に深く残った。なぜ忘れなければならないのだろう? 僕にはとても忘れられない。だから、ここに書き記す。だけど、どこの誰がその儀式をしたのか、わからないように村と人々の名前は書かないでおく。

その村の人々はだいたい五、六十で死ぬそうだが、シャーマンは百歳くらいまで生きるそうだ。

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