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レゾナンスCafe Vol.001 『祭と変性意識の関係』 内容まとめ

レゾナンスCafe Vol.001 『祭と変性意識の関係』 内容まとめ

レゾナンスCafe Vol.001 『祭と変性意識の関係』 内容まとめ

レゾナンスCafeの第一回は、宝生明の語りによっておこなわれた。内容は以下の通り。
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サラリーマンをやめ、はじめて海外に旅行したのがバリ島だった。
そこであることを思い出した。
大学生の頃、ガムラン音楽をCDで聞いたら鳥肌が立ったこと。
そのときはなぜ鳥肌が立ったのかわからなかった。
ところが次第に明らかになっていったことがある。
それは、霊的なことに触れると鳥肌が立つということだ。
それできっとガムラン音楽は霊的なことなのだろうと気付く。
はじめてのバリ島旅行のとき、ミゲル・コバルビアスの『バリ島』という本を持っていった。
そこに「ニュピ」というお祭りについて書いてあるページがあった。

ニュピ
年に一度、春分の日には、村じゅう総出の大騒ぎと呪文で悪霊を村から追い出してしまうお祓いをする。この翌日はあらゆる活動が停止する完全な静寂日となっていて、そこからこの儀式の名前はとられている。ニュピは新年を告げ、春の訪れを、また大地さえも病んで発熱する(パナス)というやっかいな雨季の終わりを告げるのである。このときは地獄の主神ヤマが悪霊の国を掃除するので、悪霊たちはバリに逃れ、したがって人々は島じゅうを浄化せざるを得ない。

この時期にはバリ中が興奮に包まれ、ニュピまでの何日間かはだれもかれも、村の四辻に供物用の祭壇や祭司用のやぐらを組むのに忙しい。ニュピ当日には料理をしてはいけないので、その日のために食べ物が準備される。そして、神々を海まで連れて行くムリスの行列がバリじゅうで見られる。

はじめて行ったバリ島は、リゾート地に滞在し、観光をしただけだった。ところがバリ島には何かあると感じた。その何かの入口がニュピになると直感した。だから数年後、ニュピを体験しにバリ島を再訪する。

ニュピの前日はオゴオゴと呼ばれる祭をする。
主神ヤマに追い出された悪霊たちにムチャルという供物を与えて帰ってもらう。
オゴオゴは1999年のウブドでは、真っ暗闇の中でやった。ところが2008年には街灯もすっかり整備され、明るく照らされたなかでおこなわれるようになる。

2008オゴオゴ02

その様子を見て府中のくらやみ祭を思い出した。人の背丈より大きな太鼓を引っ張ってきて、それを叩く。とても大きな太鼓だから、からだ全体が震えるような音を出す。もしこの太鼓が暗闇の中で鳴らされたら、とても怖いだろうと思った。そして、かつてそれは、本当に暗闇の中で鳴らされたのだろうと感じた。そうだとすると神に対する畏怖の念を人はきっと抱いただろう。しかも、このあとで喧嘩神輿をおこなう。真っ暗な中で神輿をぶつけ合えば、下手をしたら死人が出る。それほど危険な祭だったのだろう。この恐怖の感情が何かの役に立つのではないかと思った。

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1999年のオゴオゴにはその恐怖があった。いまのオゴオゴはショーアップされ楽しいが、宗教儀式としては成り立たなくなりつつあるのではないかと思った。

ところで、柳田國男が「日本の祭」という本の中でこんなことを書いている。

つまりは「籠る」ということが祭の本体だったのである。すなわち本来は酒食をもって神を御もてなし申す間、一同が御前に侍坐(じざ)することがマツリであった。そうしてその神にさし上げたのと同じ食物を、末座においてともどもにたまわるのが、直会(なおらい)であったろうとわたしは思っている。ただしこのナオライの語原が、今日まだ明らかでないのだから断定し得ないが、単に供物のおろしを後に頂戴することを、直会だと思っている御社が半分ほどあるのは、どうも心得ちがいらしく思われる。果たして直会が私の想像のように、神と人との相饗(あいあえ)のことであるならば、この飲食物が極度に清潔でなければならぬと同様に、これに参列して共食の光栄に与(あず)かる人もまた十分に物忌をして、少しの穢れもない者でなければならぬのは当然の考え方で、この慎みが足りないと、神は祭りを享(う)けたまわぬのみでなく、しばしば御憤りさえあるものと考えられていた。

ニュピの当日、バリ島じゅうが静かになる。外出が禁止されるのだ。だから道には車もバイクも通らない。飛行機や船でさえ欠航になる。そしてこのニュピというお祭りが、ちょうどかつての日本のお正月に似ているように思えてきた。

かつてお正月には「年籠り」という風習があったのをご存じだろうか? 年越しのとき、家長が神社に集まり、本堂で一夜を明かす。それを「年籠り」というのだ。それとニュビが似ていると感じた。さらに節分追儺祭は、かつてお正月か、小正月、または春分におこなわれていたかもしれないそうだ。そうだとすると、ニュピという、春分であり、バリ島での正月のような日の前日におこなわれるオゴオゴは、節分追儺祭にも似ている。

年籠りでは、家長は徹夜をする。そのことでおそらく変性意識状態になったのではないかと思う。
祭の大事な部分とは、この変性意識状態ではなかったか?

柳田國男の文の中に物忌みの前に穢れのない状態になることが大切だと書かれていたが、そのために酒食を避け、男女の交わりを避けて心身を清らかにしておく。その結果、変性意識状態になったのだろう。さらに、かつて日本の祭では、どぶろくを作って徹夜して飲み明かすような祭りがあった。徹夜して飲み明かして侍座することで変性意識状態になったのではないだろうか? 

変性意識状態はいろんなレベルがある、それは「ワクワクすること」「一生懸命何かをすることで我を忘れること」「高揚感」「没入状態」「言葉を降ろす」など。普段の状態とはちょっと違った状態だ。変性意識状態について研究した須原一秀が『高学歴男性におくる弱腰矯正読本』という変わった本で、変性意識状態のサンプルをいくつか取り上げている。

事例1
僕が小学校3、4年の頃、家に唐草模様の入ったガラス窓があって、それをずーっと見つめていると、ガラスの模様がだんだん大きくなってきて、目の中に飛び込んでくるのです。それが、波紋のような感じで、ビシビシと体の中に入ってきて、体がガクガクとふるえているような感じになってきて、目の前が真っ白になりました。その感じが、怖いのですが、とても気持ちよく、やみつきになり、毎日ガクガクとなって遊んでいました。

事例2
机の上でピンポン玉を手で押さえて、指先から逆回転を与えて弾き出させて、遊んでいました。右へ左に動くピンポン玉を目で追っておりましたが、そのうちに、ピンポン玉は円柱などとは違ってどの向きから見ても「円」なんだなー、と考え始めたあたりから、なんだか記憶が薄い。自由に動きまわるものを体の内に取り入れて、自分も自由に動けるようになりたかったのか、その時ふとピンポン玉を口の中に入れてしまっていたのである—-飲み込もうと思っていたのか?
その瞬間ふと我に返った。一瞬青ざめた。何故そんなきたないものを口にしたのか、今考えても分からない。『高学歴男性におくる弱腰矯正読本』 須原一秀著

このような変性意識状態は、病気であるとか、普通じゃないとか言われるかもしれないが、誰でもふとした瞬間に似た体験をすることがあるのではないか?

瞑想をしていると自分の内側にある記憶や感情や見たこともないイメージが浮上してくる。僕にはこれがとてもいいことに思える。
僕自身、2006年のニュピが明けるとき、瞑想で目をつむった状態で目の前に弥勒菩薩を見た。それが朝日の光とともに僕のからだに入ってきたという体験をした。「だから僕は弥勒菩薩だ」などというつもりはない。しかし、高僧が如来などと一体になった経験というのは、こういうことなのだろうと思った。それはきっと精神的修養を積んでいくといつか体験するのだろう。そして、それを体験するとき、変性意識状態になっており、そのことのためにかつての日本人は暗闇や籠りを大切にしたのではなかったのか?

国学の研究家として折口信夫がいるが、折口が舞踏や演劇について語るとき、そこには変性意識状態があったように思う。安藤礼二は『折口信夫』でこんなことを書いている。

祝祭のなかで、人は神となる。
まとめてしまえばただ一言、そうした事態を分析し解明することだけが、折口信夫の学問全体を貫く主題であった。マレビトという、折口信夫が創り上げた概念もまた、一年に一度、祝祭をもたらすために共同体を訪れる、神であるとともに人でもあるような存在を指す。

神の言葉、神の動作を「真似」し、反復を重ねることから芸能が生まれる。
ゆっくりと旋回しながら「舞う」女たち、そこから垂直に飛び上がり大地を「踏む」男たち。水平の運動と垂直の運動が交わるところに舞踏が生まれ、音楽が生まれる。「自己」という固有性は消滅し、「神」という普遍性が出現する。だからこそ、「神」となって舞踏するために人は仮面を被るのだ。仮面は「自己」という固有性をあとかたもなく消滅させてくれる。仮面を付けた瞬間、人は神になり、神は人になる。そして神の言葉と、神の動作を「真似」し徹底的に反復する。(中略)
芸能によって、人間は宇宙にひらかれた存在となる。『折口信夫』 安藤礼二著

最近のほとんどの祭は、現代人の一般的常識の枠内でおこなわれる。だから深い変性意識状態はやってこない。しかし、一般常識を離れているかもしれないとんでもない祭では、参加者のうちにきっと変性意識状態の人たちがいるだろう。そういう人たちは、その祭をやるのは義務ではなく、やることが楽しいからやっていて、やめたくはないし、やめられるものだとも思っていない、そういう祭になっているはずだ。

神とはいったいなんだろう?
いろんな解釈があるが、現代の科学的知識を持つ人々には、こういう神様のイメージがしっくり来るのではないだろうか? つまり、「神とは命を授けてくれる力」。もしそうだとしたら、ありとあらゆる物質を構成している原子の営みが神の力なのではないか?

直会で食べる行為は、ありとあらゆるものがつながっていることを思い出す行為なのではないか? さっきまで生きていた動物や魚、草木やその実を食べることで、それらは私の一部分になる。これを感じるとき、変性意識状態であれば、食べた存在と同化することもあるだろうし、そのようにして宇宙と一体化することもあるだろう。そのような感覚のとき、動物が神であり、樹木が神であり、魚が神であり、私も神となる。

バリ島のお祭りではしばしばトランス状態の人が現れる。これも一種の変性意識状態だ。上下関係の厳しいバリ島だからこそ、トランスすることで関係が緩む。上下関係を超えた絆が生まれる。かつての日本の祭もそのようなものだったのではないか?

2008サヌール祭礼07

映画『アルタードステイツ/未知への挑戦』のモデルとなったジョン・C・リリーは、自ら発明したアイソレーションタンクに入り、変性意識状態を体験することで、外で何が起きているか、時間を超越して何が起こるかを知ったという。

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アイソレーションタンクとは、人が一人入れる大きさの箱に、ほぼ体温と同じ温度の水を張り、そこに呼吸のためのマスクをして入る。箱の蓋を閉じれば真っ暗闇となる。光、音、皮膚感覚などを遮断されることで、何を感じるかを実験した。リリー博士は予知をしたり、そこでは知りようがない別の場所の出来事を察知したという。

このことを疑うのは簡単だが、事実だと受け入れるとどんなことが可能になるだろうか?

話は祭に戻るが、祭では不思議なことがたくさん起きる。たとえば、なぜ何百キロもある重たい神輿を、人は喜んで担ぐのだろうか? ご利益があるから? 人にほめられるから? イキイキとするから? それらもひとつの答えではあるが、それだけではないような気がする。そのもうひとつの答えが、変性意識にあるのではないか? 変性意識状態になると、人は顕在意識では感じない連帯を感じるのではないか? だから祭では多くの人が同じように行動する。

さて、ここで質問。ある地域の人たちがまとまってある一つのことを成し遂げるというのは可能か不可能か? 祭の話のあとでは、可能のように思えるだろう。しかし、普段の僕たちの意識で、何百人の人をひとつにまとめるというのは難しいような気がしないだろうか?

では、また別の質問。地球にいる人すべてが、yesという答えはあるだろうか?
普通に考えるとそんなものはないように感じる。しかし、祭の延長線上で考えると、あっても不思議ではないと感じないだろうか?
なぜそんなふうに感じるのだろう?
変性意識状態に入ると、それが可能かもしれないと、僕たちはなんとなく知っているからではないか?

世界中の各地方にお祭りがある。その祭では人々は連帯する。理屈を超えて。その連帯を少しずつ広げ、世界が一体になることはないだろうか? もしそれがあるとして、どんな準備が必要だろうか?
これが私たち人類が追い求めるべき何ものかではないだろうか? もしその答えが見つけられれば、少なくとも戦争は必要なくなるだろう。もしこれが可能だとしたら、僕たちは「人」という視点も超えて、地球上に存在する他の動物、他の植物、他の存在にも共感する状態を生み出すべきではないか? もちろんそれは簡単なことではない。しかしそれをすることで、はじめて僕たちは地球と一体となる。

人類は地球に多大な影響を及ぼす存在となった。地球の意図というものがもしあるなら、それを汲み取り、それを補佐するように生きるべきではないか? だとしたら、地球の意図とはどのようなものだろう? この意図は人間にはとても理解できないものだろう。しかし、その意図の一部になることは可能かもしれない。

ユングの『ヴィジョン・セミナー』という本にこんな記述があった。

歴史では、ある一続きの事件がしかじかのできごとに至ったということを目にします。しかし、それらの間には何のつながりもないのです。こう仮定しましょう。私は今みなさんとほかならぬこの問題を議論していて、庭では犬が吠え、自動車の通る音が聞こえ、鳥は歌っている、と。東洋なら、そういったことどもを数に入れるでしょうが、私たちはそれらを排除します。原因を探すのです。私たちは、その犬は猫を見つけたから吠えるのだ、と言います。しかし、鳥が歌うのは、犬が吠えるからでも、私がここで講義をするからでも、自動車が通っているからでもありません。その自動車も、犬が吠えるから通るというわけではありません。つながりはないのです。これらのことは、独立にただ起きるだけです。それらが起きるのは単なる偶然です。私たちにとって、それは説明不要です。私たちはそういう問題を視野に入れることさえできません。一方、東洋人にとっては、これがいっさいを含んでいます。彼はそのことを一つの全体として理解するからです。犬は吠え、鳥は歌い、木々は緑で、自動車が通っている。このすべてが一つのアンサンブルをなしており、バラバラにできない経験なのです。彼は、そうした横断的な見方で、諸々のできごとの本質的で唯一のつながりを見ます。この瞬間にその犬が吠えるということは重要です。みなさんは少し前に、ここの台所で何かが壊れる音を耳にしましたね。東洋の人は言います。ああ、事態はおのずと打開されるにちがいありませんよ[物は必ず壊れるものですよ]、と。
C・G・ユング 『ヴィジョン・セミナー1』創元社刊 -第1講 一九三一年五月六日-より

地球で起きていることをすべて西洋的理屈で追い続けることはできない。すべてが一度に起きていることを受け入れ、その状態を味わうことでしか、地球の意図の一部にですら達することはできないだろう。

『現象としての人間』を書いたテイヤール・ド・シャルダンはその本にこんなことを書いている。

分子のなかには原子のなかより以上の何ものかがあることを認め始めている。細胞のなかには分子のなかより以上の何ものかが、また社会のなかには個人のなかより以上の何ものかが、また数理的構造のなかには計算や定理のなかより以上の何ものかがある……このような結合の段階を追って上にのぼるにつれ、個々の要素に還元しえない何ものかが新しい次元のなかから発現することを認める傾向が今日では見られる。またそのために、意識、生命、思考力よりもまさに科学的な存在として認められようとしている。しかしこの〈何ものか〉に対して、科学は独立した、確固たる固有の価値をまだ与えているとはとうてい言えない。
『現象としての人間』第二章 集団を越えるもの ——- 高次の人格より

地球上で生まれつつあるこの〈何ものか〉が完成するとき、その状態をシャルダンは「オメガ・ポイント」と呼んだ。そして、こんなことも書いている。

生命の樹の樹液全体を一本の枝だけのために集め、他の枝の死の犠牲の上に立つ民族主義者の理想は誤っているし、自然の理にそむいている。太陽にむかって伸びあがるためには、まさに木の枝全体の成長が必要なのである。
世界の出口、未来の扉、超=人間への入口、これらは、いく人かの特権者やあらゆる民族のなかから選ばれた唯一の民族だけに開かれているのではない。それらは万人の圧力に対して、すなわち、全人類が地球の精神的革新において一致団結し、完成されるような方向に対してのみ道をあけるのである。

地球上の文明が完成するとき、すべての人間がその人なりに完成を目指して歩む状態になっているだろう。だから、オメガ・ポイントを夢見るとき、人は誰かに何かを任せきるわけにはいかない。自分は自分なりの完成を目指して歩んでいる状態。それが積み重なることでオメガ・ポイントがやって来る。祭は各地方での、オメガポイントの準備ではないだろうか? 祭では、個人では到底できないことを、自発的に集まることで成し遂げていく。そこに変性意識が関わるのは、偶然のことではないのではないか? 祭で生まれてくる問題はそのためのトライ&エラーなのではないか?

ピラミッドの建設のようなものも祭だったのではないかと思う。チチェン・イツァーで得た「この世界が多次元であることに深く気づけ」という示唆は、個人から考えると、とても思いつかないような解答が、地球上にいる人類がさまざまな形で共同することで編み上げられていくことを意味していたのかもしれない。そしてその解答は、「人類がさまざまな形で共同する」という背景が組み上げられたとき、突如として見えて来るようなものなのかもしれない。

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かつてイスラエルとパレスチナの子供たちを日本に連れてきて日本の子供たちと一緒にサッカーをするというイベントをお手伝いしてきたとき、突如として詩が降りてきた。その詩をイスラエル大使、パレスチナ駐日代表の臨席するパーティーで英語・ヘブライ語・アラビア語に翻訳してもらい、輪唱のようにして朗読した。

水の音

波の音、ザブン
雨の音、ザー
滝の音、ドーッ
みんなおんなじ水の音
鼓動の音、トクトク
わたしのなかに、トクトク
あなたのなかに、トクトク
地球の上の 誰の胸にも、トクトク
トクトクも、実はやっぱり水の音
あなたの心が揺れるとき
わたしの心に波紋が広がる
みんなおんなじ水だから
あなたの耳に懐かしい
やさしいきれいな水の音
心の底から湧き出るように
あなたのために祈ります
母さんからいただいた、トクトク
父さんからいただいた、トクトク
いつまでも安らかに続きますように

滅多に詩は書かないが、このような詩が降りてきた。この背景となるイスラエル・パレスチナ、そして日本の子供たちの共同が実際に目の前にあったからこそ降りてきた詩と言える。僕の心は変性意識状態になっていた。

もし人間同士が共感し合えるようになったら何が起きるのか?
人間という枠を超え、生命同士が共感し合えるとしたら何が起きるのか?
一般的な顕在意識は、このようなことは起こらないと絶望しているようだが、僕たちはこのようなことに期待してもいいのではないか?

わたしたちを形作っているあらゆる原子は、すべて共通のもの。

あるときは私だが、あるときはあなたかもしれず、またあるときは樹木かもしれない。
神の力はここに宿っているのではないか?
変性意識状態は、このことを思い出すためなのではないか?

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