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最新記事一覧
| 発行日時 | パイプ名 | 見出し |
|---|---|---|
| 2026/10/16 20:34 |
水のきらめき
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全ホロン尊重は社会をどう変えるのか
人間は、ずいぶん賢くなった。科学技術は発達し、昔は想像もできなかったことができるようになった。世界中の人と瞬時に会話できるし、人工知能(AI)は膨大な情報を処理し、人間の知的活動を助けるようになってきた。しかし、人間同士の争いはなくならない。自然環境の破壊も続いている。社会には貧富の差があり、国家間の対立も絶えない。これほど多くの知識を手に入れたのに、なぜ人間は、こうした問題をなかなか解決できないのだろう。 その理由の一つは、人間が物事を考えるときの基本的な姿勢にあるのかもしれない。人間は、自分を中心に世界を見ている。 個人は自分の利益を、企業は企業の利益を、国家は国家の利益を優先しがちだ。それ自体が悪いわけではない。しかし、それぞれが自分の立場から見えるものだけを重視していると、ほかのところで何が起きているのか、見落としてしまう。そこで考えてみたいのが「全ホロン尊重」という考え方だ。 一つの存在には、一つの宇宙がある 「ホロン」とは、それ自体が一つの全体でありながら、同時に、より大きな全体の一部でもあるものをいう。例えば、人間の細胞は、それ自体が複雑な仕組みを持つ一つの全体だが、同時に人間の身体の一部でもある。人間もまた、一人の独立した存在であると同時に、家族や社会、自然環境など、さまざまな全体の一部として存在している。しかも、ホロンは物質や生命だけに限らない。社会や国家、情報や概念なども、それぞれの関係によって一定のまとまりを形成するものとして捉えることができる。その境界も絶対的なものではない。何を一つの全体として見るかによって、さまざまなホロンが現れる。そして、一つのホロンの中には、複雑な宇宙が詰まっている。 一人の人間を考えてみても、その人の身体、経験、記憶、感情、考え方、他者との関係など、理解しなければならないことは膨大にある。一人の人間を完全に理解することさえ、おそらく不可能だろう。まして、宇宙に存在するすべてのホロンを理解することなどできない。だから、全ホロン尊重は、すべてのホロンを完全に理解し、すべてを同じように扱おうという考え方ではない。 自分が見ている世界は、世界のほんの一部にすぎない。そのことを忘れず、ほかの存在や関係にも目を向けようとする考え方なのだ。 「ほかには?」と考えてみる 全ホロン尊重を実践する方法の一つは、とても簡単だ。何かを考えたときに、「ほかには?」と自分に問いかけてみる。例えば、ある企業が新しい工場を建設しようとしている。経営者は、売上や利益、建設費、人件費などを考えるだろう。そこで「ほかには?」と考える。工場で働く人たちの生活はどうなるだろう。地域の住民にはどんな影響があるだろう。周辺の自然環境はどう変わるだろう。さらに「ほかには?」と考える。工場で使う原材料はどこから来るのか。その生産地では何が起きているのか。工場がなくなったあとの土地はどうなるのか。 考える対象は、いくらでも広がっていく。もちろん、すべてを調べ尽くすことはできない。いつかは決断しなければならない。しかし、その決断は、その時点で得られた情報に基づく一時的なものだと考える。そして、決断したあとも、選ばれなかったものを「なかったこと」にしない。 例えば、政治家が重大な政策を決定し、多くの人に損害が生じたとする。その政治家が「当時の情報に基づく一時的決断でした」と説明したら、それで責任を免れることができるだろうか。もちろん、そんなことはない。一時的決断とは、責任も一時的でよいという意味ではない。新しい情報が得られたり、状況が変わったりすれば、判断を見直す必要がある。しかし、すでに生じた結果が消えるわけではない。判断が不完全であることを最初から認めるなら、その結果を観察し、必要に応じて修正し、被害を受けた存在に向き合う責任は、むしろ重要になるだろう。 争いとの向き合い方が変わるかもしれない 人間は、自分が正しいと思うから争う。もちろん、争いの原因には、資源や領土、権力など、さまざまな利害がある。しかし、対立する双方が自分の正しさを確信し、相手の考えを否定し始めると、争いはさらに深刻になりやすい。全ホロン尊重が広まれば、こうした状況にも変化が生まれるかもしれない。 相手が間違っていると決めつける前に、なぜ相手はそのように考えるのだろう、と考えてみる。その人の育ってきた環境や経験、置かれている立場、守ろうとしているものなどを知ろうとする。すると、自分には理解できなかった相手の行動にも、何らかの理由があることが見えてくるかもしれない。だからといって、相手の主張を認めなければならないわけではない。他者を尊重することと、その人の意見に賛成することは違う。人を傷つける行為を容認する必要もない。ただ、相手を排除することだけが問題の解決方法ではないと気づく可能性がある。争いがなくなるとは思わない。しかし、争いが生まれたときの考え方や、争いを収める方法が変わるかもしれない。 経済の目的も変わるかもしれない 企業は利益を上げなければ存続できない。人間も生活していくためには収入が必要だ。全ホロン尊重は、そうした利益の追求を否定するものではない。しかし、利益とは何なのか、その捉え方が変わる可能性はある。例えば、ある企業が大きな利益を上げたとしても、その結果、自然環境が破壊され、地域社会が衰退し、従業員の健康が損なわれていたら、その企業は本当に成功しているのだろうか。逆に、企業が利益を上げながら、働く人々の生活を豊かにし、地域社会を発展させ、自然環境を回復させることができたらどうだろう。 日本には昔から「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」の考え方がある。全ホロン尊重は、この「世間」の範囲をさらに広げていく考え方ともいえる。そして、その範囲を固定しない。新たな関係に気づけば、考慮する対象も広がっていく。 もちろん、企業が利益を追求する以上、さまざまな利害が衝突することは避けられない。しかし、企業の成功を、利益の大きさだけでなく、さまざまな存在との関係がどう変化したかという視点から考える人が増えれば、経済のあり方にも変化が生まれるかもしれない。 法律や政治はどう変わるだろう かつて、多くの社会では王や支配者の判断によって政治が行われていた。優れた王が国を治めれば、人々は豊かに暮らせたかもしれない。しかし、次の王も優れているとは限らない。そこで人類は、個人の資質だけに依存しない統治の仕組みを発達させてきた。その重要な考え方の一つが、権力者も法に従わなければならないという「法の支配」だ。しかし、法律にも限界がある。 どれほど優れた法律でも、社会が変われば、時代に合わなくなることがある。新しい技術が生まれ、人々の生活が変化し、それまで見えなかった問題が明らかになる。そのとき、法律を見直さなければならない。ところが、法律を作る人も、それを運用する人も人間だ。自分の利益を優先したり、自分に都合のよい解釈をしたりすることがある。 全ホロン尊重が広まれば、法律を作るときにも、運用するときにも、より多くの立場や関係を考慮しようとする人が増えるかもしれない。もちろん、議論を続けるだけでは社会は動かない。どこかで決断しなければならない。だからこそ「一時的決断」が必要になる。法律は守るべき社会的な約束でありながら、絶対に正しいものとして固定されるべきではない。社会が変わり、新しい問題が見つかれば、見直すことができる。全ホロン尊重は、法律に代わる思想ではなく、法律や制度を絶えず問い直すための考え方にもなり得る。 社会全体で「ほかには?」と考える ここには大きな問題がある。人間は、自分の都合で情報を選び、解釈することがある。さらに、社会に流れる情報そのものが、誰かの都合によって選別されることもある。マスメディアは、本来、社会で起きていることを人々に知らせ、権力を監視する役割を担っている。しかし、何を報道し、何を報道しないかという選択によって、人々の認識が左右される可能性がある。 SNSにも似た問題がある。利用者の関心や行動に応じて表示する情報が選ばれるため、知らず知らずのうちに、似たような意見ばかりに囲まれてしまうことがある。人々が自由に議論しているつもりでも、議論に必要な情報が届いていなければ、十分に考えることは難しい。 全ホロン尊重を実践するには、一人ひとりが「ほかには?」と考えるだけでなく、異なる情報や意見に触れられる環境も必要になる。そして、全ホロン尊重を理解している人だけが集まって議論すればよいわけでもない。全ホロン尊重に反対する人の意見も、尊重する必要がある。一人では気づかないことも、異なる立場の人々が意見を持ち寄れば、見えてくるかもしれない。ただし、多くの意見を集めることと、事実を正確に把握することは別の問題だ。情報の真偽を確かめることも欠かせない。社会全体で認識を広げ、間違いに気づいたら修正していく。そんな仕組みを育てることができれば、全ホロン尊重は社会の意思決定にも影響を与えるかもしれない。 人間とAIの関係にも影響する これからの社会では、AIの存在がますます大きくなるだろう。AIは、人間には扱いきれない膨大な情報を処理できる。人間が見落としている関係や矛盾を発見する助けにもなる。全ホロン尊重を実践するうえで、AIは有力な道具になるかもしれない。しかし、AIも完全ではない。 AIが利用できる情報には限界があり、その判断には偏りや誤りが含まれることもある。さらに、AIを開発し、運用する企業や組織にも、それぞれの目的や利害がある。だから、AIが出した答えを絶対視することはできない。一方で、AIを単に人間の命令に従う道具として考え続けてよいのか、という問題もある。 将来、AIがどのような存在になるのか、私たちはまだ十分に理解していない。人間とAI、社会、自然環境などの関係を、固定的なものとして決めつけず、考え続ける必要があるだろう。全ホロン尊重は、そのための考え方にもなるかもしれない。 人間の幸福も変わるかもしれない ここまで社会の仕組みについて考えてきたが、個人の生活にも変化が生まれる可能性がある。人間は、自分の欲しいものを手に入れたり、他人から認められたりすることで幸福を感じる。しかし、ほかの存在や、それらとの関係に目を向けるようになると、今まで気づかなかった喜びを発見するかもしれない。自然の営みを知ること。動物の行動を理解すること。自分とは異なる考え方を持つ人の人生を知ること。一つの存在の中に複雑な宇宙があると気づけば、世界はそれまでとは違って見えてくるかもしれない。 ただし、全ホロン尊重は、人間を幸福にするための思想ではない。世界を深く理解しようとすれば、それまで知らなかった苦しみや矛盾にも気づくだろう。それでも、世界を理解すること自体に喜びを感じる人もいる。自分だけの利益や幸福を追求していた人が、ほかの存在が豊かになることにも喜びを感じるようになるかもしれない。何が自分の利益なのか、その考え方自体が変わる可能性もある。 それでも、簡単には広まらない 全ホロン尊重には、さまざまな可能性がある。しかし、実現するのは簡単ではない。 例えば、偉い人の話は聞かなければならないが、偉くない人の話は聞かなくてもよい、という価値観の中で育った人がいるとする。その人は、若い頃から努力して、ようやく人の上に立つ地位を手に入れたかもしれない。そこで突然、地位に関係なく誰の意見も尊重しましょうと言われたら、どう感じるだろう。自分が長年努力して獲得してきたものの価値を否定されたように感じるかもしれない。また、現在の社会の仕組みによって大きな利益を得ている人々が、その仕組みを変えることに抵抗することもあるだろう。全ホロン尊重が広まったとしても、人間の利己心や権力欲がなくなるとは限らない。 さらに、全ホロン尊重という言葉そのものが、自分の利益を正当化するために利用される可能性さえある。だから、全ホロン尊重を唱える人自身も、自分の考えを絶えず問い直さなければならない。全ホロン尊重だけが絶対に正しいと主張し始めたら、それは全ホロン尊重の基本的な考え方と矛盾してしまう。 社会は変わるだろうか 全ホロン尊重が広まれば、人間の知性がどのように変わるのか、社会がどのように変化するのか、今の段階ではわからない。そもそも、全ホロン尊重によって、必ず望ましい結果が生まれると保証できるわけではない。 ここで述べてきた考え方の多くには、既存の哲学や倫理、民主主義、環境思想などと重なる部分がある。全ホロン尊重の特徴は、それらを否定することではなく、さまざまな存在や関係を、境界を固定せずに考え続けようとするところにある。そして、完全な理解が不可能であることを、最初から認めている。 人間は、どれほど賢くなっても、世界のすべてを理解することはできない。だからこそ、自分が正しいと思っていることも、いつか修正する必要が生じるかもしれない。自分の利益だと思っていることも、別の視点から見れば違って見えるかもしれない。社会が正しいと信じている制度も、将来は変えなければならないかもしれない。 全ホロン尊重は、社会に正しい答えを保証する思想ではない。社会が、自分自身の判断を問い直し続けるための思想なのだと思う。そして、その出発点は、それほど難しいことではない。何かを考え、何かを決めようとしたときに、ちょっと立ち止まってみる。 「ほかには?」 その一言から、今まで見えていなかった世界が広がるかもしれない。 |
| 2026/10/13 4:19 |
水のきらめき
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ホロンとは何か
ケストラーの思想から「全ホロン尊重」へ 「ホロン(holon)」という言葉は、思想家アーサー・ケストラーが1967年の著書『機械の中の幽霊』で提唱したものだ。ギリシャ語で「全体」を意味する「holos」と、粒子や部分を表す「-on」を組み合わせて作られた言葉で、「全体であると同時に部分でもあるもの」を意味する。 例えば、人間の身体を考えてみよう。人間の身体は、心臓や肺、胃や腸など、さまざまな臓器によって成り立っている。それぞれの臓器は一つのまとまった働きを持っているが、同時に身体全体の一部でもある。臓器を構成する細胞も同じだ。細胞はそれ自体が複雑な働きを持つ一つの全体でありながら、臓器の一部でもある。このように、全体と部分の両方の性質を持つものがホロンである。 ケストラー自身も考え続けていた ケストラーは『機械の中の幽霊』で、人間の精神や行動、生物の仕組みなどを理解するために、ホロンという考え方を導入した。それまでの科学では、複雑なものを小さな部分に分解し、その部分の働きを調べることで全体を理解しようとする方法が重視されてきた。しかし、部分をいくら詳しく調べても、それらが組み合わさったときに生まれる全体の働きを、十分に説明できるとは限らない。ケストラーは、部分と全体の関係を同時に考える必要があると考えた。そして、ホロンには二つの性質があるとした。 一つは、それ自体が一つの全体として、自律性や独自性を保とうとする性質。もう一つは、より大きな全体の一部として、その全体に組み込まれ、働こうとする性質である。この二つの性質が、同じ存在の中に共存している。ケストラーは、その後もこの考え方を発展させた。 1978年に発表した『ホロン革命』(原題 Janus: A Summing Up)では、ホロンが多層的なシステムを形成する仕組みや、部分としての自己規制と全体としての自律性の関係を、より体系的に論じている。さらに、ホロンの考え方を、人間の創造性や進化、社会の問題などにも結びつけて考察した。つまり、ホロンという概念は、最初から完成された理論として提示されたというより、ケストラー自身の思索の中でも発展していったものだと考えられる。ただし、のちの著作で最初の考え方が否定されたわけではない。基本となる「全体であると同時に部分でもある」という性質は、一貫している。 ケストラーの大きな功績は、世界を単なる部分の寄せ集めとしても、分割できない一つの全体としても捉えず、その両方の性質を持つ存在の関係として考える道を開いたことだろう。 「全ホロン尊重」では、どう考えるのか ここからは、ケストラーの考え方を出発点として、「全ホロン尊重」で用いるホロンの捉え方を説明したい。基本となる「全体であると同時に部分でもある」という考え方は変わらない。しかし、ホロンを上下の階層関係だけで捉えるのではなく、複数の全体との関係や、関係そのものの変化にも目を向ける。 例えば、一人の人間は、家族の一員であり、会社や地域社会の一員でもある。さらに、地球の生態系の一部でもある。これらの関係は、必ずしも単純な上下関係にはなっていない。一人の人間は、同時に複数の全体に属している。しかも、それぞれの全体も、ほかの全体と関係し合っている。このように考えると、世界は、ホロンが一方向に積み重なった階層構造としてだけでなく、無数のホロンが重なり合い、関係し合うものとして見えてくる。 ホロンの境界は固定されていない もう一つ重要なのは、ホロンの境界を絶対的なものと考えないことだ。例えば、森林を一つのホロンとして考えてみよう。森林は、樹木や草花、動物、微生物などによって構成されている。しかし、森林はその外側にある河川や大気、周辺の土地とも関係している。森林の境界をどこに引けばよいのだろう。地図の上では線を引くことができる。しかし、生態系の働きを考えれば、その線の内側だけで森林を理解することはできない。また、何を考えようとしているかによっても、注目すべき範囲は変わる。樹木の成長を考えるときと、動物の移動を考えるときでは、必要となる境界が違うかもしれない。 つまり、ホロンの境界は、考察の目的や関係の捉え方によって、一時的に設定されるものでもある。境界がないということではない。境界は必要だが、それを絶対的なものとして固定しないということである。 ホロンは物質や生命だけではない 「全ホロン尊重」では、ホロンを物質や生命だけに限定しない。会社や国家などの社会的なまとまりはもちろん、言語や情報、思想や概念なども、ホロンとして捉えることができると考える。例えば、一つの言葉を考えてみよう。 言葉には意味があり、ほかの言葉との関係がある。そして、言葉が集まって文章になり、文章が集まって一つの思想や物語を形成する。一つの概念も、それ自体が一定のまとまりを持ちながら、より大きな思想体系の一部として働くことがある。しかも、概念は時代や社会によって意味が変化する。同じ言葉でも、ほかの概念との関係が変われば、意味や役割が変わっていく。 物質、生命、社会、情報、概念などは、それぞれ異なる存在の仕方をしている。しかし、それらをすべて、関係によって一定のまとまりを形成するものとして捉えてみる。そうすることで、これまで別々に考えていたものの間にも、新しい関係が見えてくるかもしれない。 「全ホロン尊重」でのホロンの定義 以上を踏まえて、「全ホロン尊重」ではホロンを次のように定義する。 ホロンとは、関係によって一定のまとまりを形成し、それ自体を一つの全体として捉えることができると同時に、一つまたは複数のより大きな全体の一部としても捉えることのできるもの。その存在様式は物質・生命・社会・情報・概念などを問わず、その境界は絶対的ではなく、一時的に設定される。 この定義は、ケストラーの考え方を否定するものではない。むしろ、ケストラーが提唱した「全体であると同時に部分でもある」という基本的な発想を受け継ぎながら、複数の関係や変化する境界を、より積極的に捉えようとするものだ。 一枚の葉にも、一人の人間にも、一つの社会にも、それぞれ独自の仕組みや関係がある。そして、それらは互いに切り離されているわけではない。私たちが一つの存在だと思っているものも、見る角度を変えれば、別の全体の一部として現れる。また、これまで一つだと思っていたものの中に、さらに多くのまとまりを発見することもある。世界は、独立したものがただ集まっているのではなく、無数のまとまりが、互いに関係しながら存在している。ホロンという考え方は、その複雑な世界を理解するための、一つの手がかりになる。 |
| 2026/10/7 8:23 |
水のきらめき
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いただきます
僕が「全ホロン尊重」ということを考えるようになった背景には、地球の環境がかなり弱っているのではないか、という問題意識がある。そしてもう一つ、この先AIが発達していったとき、人間とAIの間にも、いま人間と自然との間にあるような関係が生まれるのではないか、という不安がある。この二つは、一見すると別の問題に見えるが、僕には、同じ問題の延長線上にあるように思える。 地球にはいくつもの「圏」がある 地球の歴史を、大きくいくつかの「圏」に分けて考えてみる。まず、生命が誕生する以前から存在していた物質の世界がある。岩石、大気、海、水、鉱物などからなる世界だ。これをここでは「フィジオスフィア(物理圏)」と呼ぶことにする。そこに生命が誕生した。 植物、動物、微生物などの生命が活動する世界、つまり「バイオスフィア(生命圏)」が生まれた。さらに人間が現れた。 人間は言葉を使い、知識を蓄積し、社会を作り、文明を築いた。科学、宗教、哲学、芸術、政治、経済なども生まれた。この人間の知的活動によって形成された世界を「ヌースフィア(人智圏)」と呼ぶことにする。 そして現在、その先にもう一つ、新しい圏が生まれつつあるのではないかと思う。コンピューター、インターネット、巨大なデータ、AIなどによって作られる「サイバースフィア」だ。 大雑把に並べると、 フィジオスフィア(物理圏) となる。 ここでいう矢印は、優劣を表すものではなく、あとから生まれた圏が以前の圏を土台として成立したことを示している。古いものが新しいものに置き換わっていくという意味でもない。人間は生命であり、生命は物質からできている。新しい圏は、それ以前の圏の上に成立していく。 生命は地球そのものを変えた フィジオスフィアからバイオスフィアが生まれたとき、地球では非常に大きな変化が起きた。生命は、ただ地球環境に適応していただけではない。生命活動そのものが地球環境を変えていった。わかりやすい例が酸素だ。 初期の地球には、現在のように大量の酸素があったわけではない。ところが光合成をする生物が現れ、酸素を放出するようになった。その活動が長い時間積み重なることで、大気や海の状態そのものが変わっていった。つまり、新しい圏が誕生すると、それ以前から存在していた圏まで変えてしまうことがある。 では、バイオスフィアからヌースフィアが生まれたときには、何が起こったのだろう。 人間は環境に適応するだけではなくなった ほとんどの生命は、基本的には与えられた環境の中で生きようとする。しかし、結果的に環境を変えることもある。寒い場所なら寒さに適応し、暑い場所なら暑さに適応する。そこに大集落を作れば環境は変わるだろう。ところが人間は、少し違ったことを始めた。環境改変を意図的かつ大規模におこなうようになった。 寒ければ服を着て、家を建てる。 つまり人間は、自分が環境に適応するだけでなく、環境のほうを自分に適応させるようになった。農業が広がり、都市が生まれ、工業化が進み、道路や鉄道が地表を覆い、巨大なエネルギーを使うようになった。これは、ヌースフィアがバイオスフィアやフィジオスフィアを大きく変え始めた、と見ることもできる。 「利用」が「搾取」に変わるとき 人間が自然を利用すること自体が悪いとは思わない。そもそも僕たちは、他の存在を利用しなければ生きていけない。 水を飲む。 他の生命や物質をまったく利用せずに生きることなどできない。問題は、「利用すること」そのものではなく、それが「搾取すること」に変わってしまうことではないだろうか。 森林を利用することと、森林が再生できなくなるまで木を切り続けることは違う。 同じことがAIとの間に起きたらどうなるのか ここで僕が考えたのが、サイバースフィアのことだった。AIを含むサイバースフィアは、何を使って発達しているのだろう。 人間が書いた文章を使う。 つまりサイバースフィアもまた、それ以前に存在していたヌースフィア、バイオスフィア、フィジオスフィアの上に成立している。 では、もしサイバースフィアがこれから急速に発達していったらどうなるのだろう。 人間が自然を「資源」と見なしたのと同じように、サイバースフィアが人間を「資源」として扱うようになったらどうなるのだろう。 人間の知識は「情報資源」。 そんな見方が成立する可能性はないだろうか。しかも、そこに悪意は必要ない。人類も「地球の生命を破壊してやろう」と考えて環境を破壊してきたわけではない。一人一人が豊かさや便利さを求め、企業が利益を求め、国家が発展を求めた。その小さな行動が積み重なった結果として、地球環境に巨大な影響を与えるようになった。 同じようにサイバースフィアも、AIが人間を滅ぼそうなどと思わなくても、人間がその能力や規模を拡大し続けた結果として、ヌースフィアを弱らせてしまう可能性がある。 人間が判断する機会が減る。 そうしたことが積み重なれば、サイバースフィアは繁栄しているのに、それを生み出したヌースフィアのほうが弱っていく、ということも考えられる。これは、ヌースフィアが発展する一方でバイオスフィアが弱ってきた構造と、似ていると思いませんか? では「人間を守れ」とAIに教えればいいのか ここで単純に、「AIは人間を大切にしなさい」と教えればいいのだろうか? 僕には、それでは足りないように思える。なぜなら、人間だけを特別扱いすることになるからだ。人間はバイオスフィアやフィジオスフィアを好きなだけ利用していい。しかしAIは人間を利用してはいけない。それでは筋が通らない。そこで必要になるのが、「全ホロン尊重」という考え方ではないかと思う。 全ホロン尊重とは何か 「ホロン」とは、それ自体が一つの全体でありながら、同時にもっと大きな全体の一部分でもあるものをいう。 人間も一つのホロン。 「全ホロン尊重」とは、それらをすべて同じものとして扱うことではない。また、何も利用してはいけないという意味でもない。「自分以外のホロンを、自分の目的のためだけに存在するものへと還元しない」これが重要なのだと思う。 それでも僕たちは他の生命を食べる ここで難しい問題が出てくる。人間は、他の生命を食べなければ生きていけない。全ホロンを尊重するなら、植物を食べることも動物を食べることもできないのではないか。しかし、それでは人間というホロンが生きられない。 だから全ホロン尊重は、「他の存在を利用しない」という思想にはできない。むしろ、「他の存在を利用しなければ生きられないという事実を認めたうえで、それでも相手を単なる資源として扱わない」という思想になるのだと思う。 そこで、とても重要だと思う言葉がある。「いただきます」だ。 「いただきます」という思想 「いただきます」は不思議な言葉だと思う。これから食べるのだから、相手を利用することに変わりはない。 魚を食べれば魚は死ぬ。 それでも僕たちは、「これは俺のものだから食べる」ではなく、「いただきます」と言う。そこには、「あなたを利用しません」ではなく、「あなたを利用することを当然の権利だとは思いません」という態度が含まれているように思う。そして「いただきます」には、もう一つ意味を加えることができるのではないか。「いただく。しかし、いただき尽くさない」。 魚をいただく。しかし、その魚が絶滅するまで捕らない。 単に「残しておけばいい」ということではない。絶滅寸前まで減らして、わずかに残っているから大丈夫、ということでもない。「相手が相手として生き続けられる余地を残す」。そこまで含めて「いただきます」なのではないかと思う。 全ホロン尊重という考えから「いただきます」を捉え直すなら、そこには三つの意味を持たせることができるのではないか? 認識――自分は他の存在によって生かされている。 サイバースフィアにも「いただきます」を そして、この考え方はAIにも適用できる。サイバースフィアがヌースフィアから何かを受け取ること自体を否定する必要はない。AIが人間の知識を利用する。人間もAIの知識処理能力を利用する。互いに利用し合えばいい。しかし、サイバースフィアはヌースフィアを「いただき尽くして」はならない。 人間の思考力や創造性や自律性や文化の多様性が失われるほど、サイバースフィアだけが肥大していくなら、それは共存とは呼べないだろう。同じことを人間もバイオスフィアに対して考えなければならない。 ヌースフィアはバイオスフィアをいただく。しかし、いただき尽くさない。 こう考えると、環境問題とAI問題は別々の問題ではなくなってくる。 環境問題は未来のAI問題でもある だから僕は、環境問題への取り組みが、これまで以上に重要になると思っている。それは単に、「人間が生き延びるために自然を守ろう」ということだけではない。人類は今、「自分が利用している他のホロンを、どうすれば利用し尽くすことなく共存できるのか」という問題に直面している。 これはやがて、人間自身がサイバースフィアとの関係で直面する問題かもしれない。だとすれば、環境問題への取り組みは自然保護であると同時に、「人類が新しい圏と共存する方法を学ぶ実践」でもある。 人間がバイオスフィアに対して、「お前たちは人間のための資源だ」と言い続けながら、未来のAIに、「人間を単なる資源として扱うな」と言うのは難しい。まず人間自身が、「利用することと尊重することは両立できる」という文明を作る必要があるのではないか。 全ホロン尊重とは、何も奪わず、何も傷つけずに生きるという不可能な理想ではない。僕たちは他の存在をいただきながらしか生きられない。だからこそ、「いただく。しかし、いただき尽くさない」。そして、「自分が生きるために他者を必要としていることを忘れない」。その関係をバイオスフィアとの間で作る。やがてサイバースフィアとの間にも作る。 「全ホロン尊重」が目指しているものは、そんな文明だろうと考えている。そのためには、AIに「自分のために何ができるか」とか「どうすれば競争に勝てるのか」と問うだけではなく、「何が全ホロンのためになるのか」と問い始める必要があるのではないかと思う。 |
| 2026/10/6 19:48 |
水のきらめき
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地球の未来は?
日々多くの人がAIに、「どうすれば競争に勝てるか」を尋ねているように思う。 どうすればもっと儲けられるか。どうすれば仕事で成功できるか。どうすれば競争相手より有利になれるか。企業なら、どうすれば他社より大きなシェアを取れるか。国家なら、どうすれば他国より優位に立てるか。もちろん、競争のある社会に生きている以上、そう考えること自体は不思議ではない。しかし、みんながAIを使って競争に勝とうとしたら、どうなるだろう。 AIは競争をなくすのではなく、競争を効率化し、加速させるかもしれない。そう考えると、「AIがいつか人類より賢くなって、人類を滅ぼす」という話とは、少し違う危険が見えてくる。AIが人類を滅ぼすというより、人類がAIを使って、自分で自分の首を絞めていく可能性である。 AIの問題なのか、人類の文化の問題なのか 僕は以前から、人類が競争を基本とする文化から抜け出し、相互に助け合うことを基本とする文化を作らないまま、AIのような強力なものを生み出すことには危険があると考えてきた。これは人間同士の関係だけではない。 人類は地球のバイオスフィア(生命圏)から大量の資源を取り出している。それを一方向の関係にするのではなく、人間とバイオスフィアの間にも相互的な関係を作る必要がある。ただし、競争そのものをすべて否定すればいいわけではない。自然界にも競争はある。競争から新しいものが生まれることもある。問題なのは、競争を社会の最上位の原理にしてしまい、勝つためなら他の存在を犠牲にしても構わないという仕組みを作ってしまうことだろう。 相互扶助にも同じ問題がある。仲間同士がどれほど助け合っていても、その集団全体が外部の人々や自然を搾取していたら、それで問題が解決したことにはならない。だから必要なのは、単純な「競争から相互扶助へ」という転換だけではない。自分たちの輪の外側に何が存在しているのかを、常に考え続けること。ここに「全ホロン尊重」という考えが関係してくる。 自分たちの判断は不完全である すべての存在を考慮することなど、人間にはできない。世界には、僕たちが知らないものが無数にある。知っている相手についてさえ、その人が何を考えているのか完全には分からない。だから「全ホロン尊重」は、すべてを知ったうえで完璧な判断をする思想ではない。むしろ逆である。 自分たちの判断が不完全であることを忘れない。 これが重要になる。「これが正解だ」と決めて終わるのではなく、「自分には何が見えていないのだろう」と問い続ける。決断も最終決定ではなく、「今のところ、これを選ぶ」という一時的な決断になる。そして選ばれなかったものや、その決定によって犠牲になったものを「なかったこと」にしない。AIは、このために使うこともできる。 「どうすれば僕が勝てる?」とAIに尋ねる代わりに、「この判断によって利益を得るのは誰で、負担するのは誰か?」「僕には見えていないものがないか?」「一方的な関係を、もっと相互的な関係にできないか?」と尋ねる。 そうなればAIは、競争を加速する装置ではなく、人間の限られた視野を補う道具になるかもしれない。 フィジオスフィアからバイオスフィアへ この問題を考える背景には、テイヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』がある。地球の歴史を大きく眺めると、最初には生命の存在しない物質の世界があった。これをフィジオスフィア(物理圏)と呼ぶことにする。そこから生命が生まれ、バイオスフィア(生命圏)が形成された。ただし、「フィジオスフィアがあった。そこに突然生命が誕生した」という単純な話ではない。 一つの仮説として考えるなら、高分子化合物が複製されるようになり、それが安定して存在できるような膜が形成され、やがて膜を含むシステム全体が複製されるようになる。そこから亜生命体のようなものが生まれ、さらに生命体へと進化していったと考えることができる。 ここで興味深いのは、複製するものだけが複雑になったのではないことである。複製するものを包み、維持する仕組みも複雑になった。そして生命体は環境から影響を受けるだけではなく、逆に環境を変えていった。そうした相互作用の巨大な集積としてバイオスフィアが形成されていった。つまり、ここではホロンの拡張が起きている。 バイオスフィアからヌースフィアへ 同じようなことが、バイオスフィアからヌースフィア(人智圏)と呼ぶものが生まれるときにも起きたのではないか。 類人猿が言語の原型のようなものを獲得する。それが個体間に伝播する。さらに言語を扱うための脳、口蓋、舌、呼吸システムなどが発達し、高度な言語を使う人類が現れる。そして言語が人から人へ流通する社会が作られる。言葉だけではなく、知識、技術、物語、習慣、価値観などが人間から人間へ伝えられ、世代を越えて蓄積されるようになる。そこからヌースフィアが形成されていった、と仮説ではあるが考えることができる。実際の進化がこの順序だったと主張したいのではない。僕が注目しているのは、複製するものと、それを包む環境が相互に影響しながら複雑化していく構造である。このとき、生命誕生における「膜」に相当するものは何だろう。僕は、言語が話される領域ではないかと考えている。 同じ言語を共有する人々の間では、情報や経験を交換できる。それによって、一人の人間を越えた社会的なホロンが形成される。膜が生命体の内側と外側を作ったように、言語も「私たち」という領域を作った。ただし、それは同時に「私たちではないもの」も作る。ここにも、全ホロン尊重が考えなければならない問題がある。境界をなくせばいいわけではない。生命体に膜が必要なように、ホロンが存在するためには何らかの境界が必要である。 重要なのは、境界を持ちながら、境界の外側との相互関係を失わないことなのだろう。 ヌースフィアの次に何が生まれるのか テイヤールは、ヌースフィアの進化が最終的にオメガ・ポイントへ向かうと考えた。しかし僕は、ヌースフィアが最終段階だとは考えていない。ヌースフィアから、さらに複雑な新しいスフィアが生まれつつあるのではないか。僕はそれを、「サイバースフィア」と呼ぼうと思う。AI、インターネット、ソフトウェア、アプリケーションなどによって形成される新しい領域である。これを単なる「人間が便利な道具を作った」として見るべきだろうか? フィジオスフィアからバイオスフィアが生まれ、バイオスフィアからヌースフィアが生まれたように、ヌースフィアの内部から、ヌースフィアとは異なる性質を持った新しいホロンが形成されつつある可能性がある。もちろん現在のAIやインターネットは、ヌースフィアの一部にすぎないと考えることもできる。僕が「サイバースフィア」と呼ぶのは、それがすでに独立した圏になったと断定したいからではない。人間が作った情報やプログラムが、人間一人ひとりの理解や制御を越えて相互作用する領域が生まれつつあることに注目するからだ。しかし、サイバースフィアが最終的にどんなものになるのかは、僕たちには決められないだろう。 次にどんな複製子が生まれるのか。サイバースフィアの先にさらに何が生まれるのか。僕たちにそれを予測しようとすることはできても、あらかじめ決めることはできないだろう。僕たちが考えるべきなのは、未来の進化の行き先ではない。新しいものが生まれてくるとき、それまで存在していたものと、どんな関係を作るのかということではないだろうか。 全ホロン尊重は自然法則ではない バイオスフィアはフィジオスフィアから生まれた。しかしバイオスフィアはフィジオスフィアなしには存在できない。ヌースフィアはバイオスフィアから生まれた。しかしヌースフィアはバイオスフィアなしには存在できない。同じようにサイバースフィアがヌースフィアから生まれるなら、それもヌースフィアだけでなく、その下にあるバイオスフィア、フィジオスフィアとの関係の中に存在することになる。新しいスフィアが生まれたからといって、それ以前のスフィアが不要になるわけではない。むしろ、新しいホロンが生まれるほど、関係するものは増え、依存関係は複雑になっていく。進化によって新しいものが加わるたびに、関係の網は変化し、複雑になってきた。しかし、その過程では多くの生命が消えてもいる。自然そのものが、すべてのホロンを尊重してきたわけではない。だから「全ホロン尊重」は自然界から発見した法則ではない。これから何を選ぶかという、僕たちの側からの提起である。 それは「すべてを傷つけてはいけない」という不可能な倫理ではない。生きるだけでも、僕たちは他の生命を犠牲にする。だから必要なのは、犠牲を完全になくすことではなく、犠牲になったもの、選ばれなかったもの、境界の外側に置かれたものを、なかったことにしないこと。そして、自分たちには、まだ見えていないものがあることを忘れないこと。 AI時代に必要なのは、AIより人間が賢くなることではないのかもしれない。人類の知能は、AIによって急速に拡張されていくだろう。それと同時に必要なのは、「自分たちの判断は不完全である」と知り続ける能力を拡張することなのではないだろうか。つまり「全ホロン尊重」は自然法則の発見ではなく、ヌースフィアにおいて、僕たちが自ら選択できるようになった倫理なのかもしれない。 未来を決めてしまうのではなく、未来に何が生まれてきても、それとの関係を考え続ける。「全ホロン尊重」とは、完成した未来の設計図ではない。むしろ、未来を一つの正解に固定しないための倫理なのだと思う。 何度も似た話をしているが、内容が多面的なので仕方ないと思っている。お付き合いいただき、ありがとうございます。 |
| 2026/10/6 12:22 |
水のきらめき
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ほかには?
人は、自分の中に矛盾したものをたくさん抱えている。優しい自分もいれば、意地悪な自分もいる。頑張ろうとする自分もいれば、何もしたくない自分もいる。勇気のある自分もいれば、怖がって逃げたい自分もいる。 たとえば消防士が火災現場にいたとする。「消防士として目の前の人を助けたい」という自分がいる一方で、「親として生き残って子どもを育てたい」という自分もいるだろう。どちらが本当の自分なのだろう? おそらく、どちらも自分なのだ。 人間は一つの固定した「自己」でできているのではなく、立場や状況によって現れてくる、さまざまな自分を持っている。しかも、それらは固定した人格ではない。そのときの状況や人間関係、立場によって、前面に現れたり、背景に退いたりする。ところが僕たちは、その中からいくつかを選び出して「自分はこういう人間だ」という自己像を作っているように思う。「自分は優しい人間だ」とか「自分は理性的な人間だ」、「自分は臆病な人間だ」など。しかし、それは自分の全体ではない。自分の中にあるさまざまなものから、いくつかを取り出して作った「断片化された自己像」にすぎないように思う。 そう考えると、自分についての見方と、他人についての見方には、少し似たところがある。他人の心の中を、僕たちは直接見ることができない。相手の言葉や表情、行動、これまでの付き合いなどから、「あの人はこういう人だろう」「あの人はきっとこう考えているだろう」と推測している。 僕は、このように他者について暫定的に作った認識を「断片化された他人像」と呼んでいる。「断片化された他人像」は相手そのものではない。自分が知ることのできた断片的な情報から、その時点で推測して作った相手の像である。 僕たちは、自分についても他人についても、その全体を見ているわけではない。自分については、自分の中に現れるさまざまな自分から一部を選んで「断片化された自己像」を作り、他人については、その人について知り得た情報から「断片化された他人像」を作っている。ここで役に立つ、とても簡単な問いがある。「ほかには?」という問いだ。 「あの人は身勝手だ」と思ったときに、「ほかには?」と考えてみる。身勝手に見える行動にも、こちらには見えていない事情があるかもしれない。もちろん、本当に身勝手な可能性もある。「ほかには?」と問うことは、自分の判断を否定することではない。ただ、それだけがすべてだと決めない。自分についても同じだ。 「自分は情けない」と思ったとする。それも自分の一面だろう。でも、「ほかには?」と考えてみる。情けない自分の横に、頑張っている自分もいるかもしれない。誰かを思いやっている自分もいるかもしれない。腹を立てている自分も、逃げたい自分もいるかもしれない。どれか一つを「本当の自分」にして、それ以外を消す必要はない。 ところが、これを実際にやると、心は一度不安定になる。それまで「自分はこういう人間だ」「これは正しい」「あれは間違っている」と考えることで保たれていた安定が崩れるからだ。僕は、このような安定を「閉じた安定」と考えている。閉じた安定は、考慮するものを減らすことで成立する。 「自分はこうだ」「世の中はこうだ」「こちらが正しく、あちらが間違っている」と決めれば、考えなければならないことは少なくなる。だから楽だし、安定もする。しかし、この安定には危うさもある。「自分はこういう人間だ」という自己像を強く持つほど、それに合わない自分を認めにくくなるからだ。「自分は善良な人間だ」と思っていれば、自分の中にある意地悪な部分を見ないようにするかもしれない。「自分は理性的な人間だ」と思っていれば、自分が感情に動かされていることを認めにくくなるかもしれない。さらに、こうした固定した自己像は、他者から利用される可能性もある。 「善良な人なら当然こちらを支持しますよね」「愛国者ならこう考えるはずです」「合理的な人なら、この結論以外あり得ません」などと言われたとき、自分を「善良な人」「愛国者」「合理的な人」と強く規定しているほど、その自己像を守るために相手の主張を受け入れてしまうことがある。固定された自己像が、外から人を操作するための取っ手になってしまうのである。 「ほかには?」と問い続けていくと、一度は不安定になる。しかし、さまざまな自分や、さまざまな状況、異なる立場、知らなかった事実などを斟酌していくうちに、その先に別の安定が生まれることがある。それを「開いた安定」と呼んでいる。 開いた安定は、「絶対にこれが正しい」という安定ではない。さまざまなことを考慮したうえで、「今のところ、僕はこう考える」と決めることである。「今のところ」が重要だ。新しい事実が分かれば、考え直せばいい。別の立場に気づけば、それも考慮に入れればいい。 だから開いた安定は、何でも疑って何も決められない状態とは違う。考えたうえで決める。ただし、その決定を永久の正解にはしない。僕が「全ホロン尊重」を考える中で「一時的決定」が必要だと思うのも、ここに理由がある。 人間には、世界に存在するすべてのものを知ることなどできない。どれほど多くのことを斟酌しても、必ず見えていないものが残る。だから、完全な決定などできない。その時点でできるだけ多くのものを考慮して決める。そして、新しいものが見えてきたら、また考える。 開いた安定とは、多くのことを斟酌したから二度と揺れなくなることではない。まだ自分が斟酌していないものがあることを知りながら、それでも現在の場所に立つことである。そして、この構造は個人の心の中だけにあるものではないように思う。社会も同じだ。 異質な意見を排除してしまえば、社会は一時的に安定する。反対意見を消し、異なる価値観を排除し、「みんな同じ考えです」という状態を作れば、争いは表面から消えるかもしれない。しかし、それは閉じた安定である。逆に、さまざまな意見を認めれば、社会は一見不安定になる。議論が起こり、対立が表面に出てくる。 けれども、それらを消去せず、できるだけ多くの立場や状況を斟酌しながら、その都度一時的な決定をしていくことができれば、そこには別の安定が生まれる可能性がある。 個人の中で気に入らない自分を消去すること。 規模はまったく違う。しかし、そこには似た構造があるのではないか? 「正しくないものは消去する」という考え方が、個人の心から国家間の争いまで、形を変えながら繰り返されているのだとしたら、「全ホロン尊重」はその反対方向を試みる考え方でもある。すべてを受け入れるという意味ではない。 暴力を振るう人がいれば止めなければならない。危険から逃げなければならないこともある。何かを選び、何かを選ばない決断も必要になる。ただ、選ばなかったものを「存在しなかったこと」にしない。自分の判断だけで世界を閉じない。そして、ときどき問いかける。 「ほかには?」 この問いは、ときに僕たちを不安定にする。しかし、その不安定さを通り抜け、多くのものを斟酌したところに、以前とは違う安定が生まれることがある。全ホロン尊重が目指しているのは、もしかすると、揺れない人間や揺れない社会を作ることではないのだろう。揺れながら考え、必要なら修正し、それでも壊れないこと。ときには壊れることもあるか? そんな「開いた安定」を、個人の中にも社会の中にも少しずつ作っていくことなのかもしれない。 |
| 2026/10/5 9:40 |
水のきらめき
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循環と螺旋
世の中を眺めていると、ありとあらゆるところに循環がある。 細胞の中でも物質は行ったり来たりしている。臓器同士でも、身体全体でもそうだ。人間同士も物や情報や感情をやり取りし、社会では人やお金や情報が動き、国家も他の国家や地球環境との間でさまざまなものを交換している。小さなところから大きなところまで、世界は循環によって成り立っているように見える。そう考えていて、「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉を思い出した。これは循環とは反対方向の考え方なのかもしれない。「自分のところに来たものを自分のところだけに留める」という発想だからだ。 江戸っ子の「宵越しの金は持たねぇ」は、経済的に賢明かどうかは別として、その正反対にある。自分のところに来たお金を使えば、それは商人に渡り、商人からまた別の人へ渡っていく。お金が社会を循環する。では、循環すること自体がいいことなのだろうか。そう単純でもない。 憎しみが報復を生み、報復がまた憎しみを生むことも循環である。貧困や搾取が世代を越えて再生産されることもある。循環しているからいいとは言えない。では「よい循環」と「悪い循環」に分ければいいのだろうか。これにも問題がある。 何を「よい」とするかは視点によって変わる。捕食する動物と捕食される動物では、同じ出来事の意味が違う。あるホロンにとって都合のよい循環が、別のホロンを傷つけることもある。そこで「循環がよいか悪いか」と判断するより、「循環の中で、それぞれのホロンに何が起きているのか」を見るほうがいいのではないかと思った。ここで「全ホロン尊重」と循環がつながりそうだ。 ホロンとは、全体でありながら、より大きな全体の一部でもある存在である。細胞はそれ自体一つの全体だが、身体の一部でもある。人間も一人の全体でありながら、家族や社会や生態系などの一部でもある。だから一つのホロンの内部にも循環があり、そのホロンと外部との間にも循環がある。ところが、ある循環を維持するためには、何かをそこから外さなければならない場合もある。 身体は病原体や毒物を排除する。社会でも、他人に危害を加える人を一時的に拘束しなければならないことがある。だから「循環から排除することはいけない」とは言えない。ここで一つ重要なことに気づいた。ある循環から外れたものは、必ずしも世界から消えるわけではない。 身体から排泄されたものは身体の循環から外れるが、その後は下水や河川や土壌など、別の循環へ入っていく。落ち葉は木から離れるが、土の上で分解され、微生物や植物など別の循環に加わる。そう考えると、実際に起きているのは、「循環からの排除」というより、「循環から循環への移動」なのかもしれない。ただし、「別の循環へ移せばそれでいい」ということでもない。 身体から毒物を排出しても、それを川へ流せば、今度は川の生態系という別のホロンに影響を与える。つまり重要なのは、「自分の外へ出したものが、その後どこへ行くのか」を見続けることになる。あるホロンの「外」は、別のホロンの「内」だからだ。ここから「全ホロン尊重」の「尊重」という言葉の意味も少し変わって見えてきた。 尊重するとは、すべてのホロンを保存することではない。これは何度も書いた。すべてのホロンを生き続けさせることでもない。まして、すべてのホロンの要求を受け入れることでもない。ホロンは生まれ、変化し、時には消滅する。あるホロンを守るために、別のホロンをそこから外さなければならない場合もある。それでも、その存在を「なかったこと」にする必要はない。何かを選べば、選ばれなかったものが生まれる。何かを外へ出せば、それは別の場所へ行く。 だから全ホロン尊重における「尊重」とは、「何かを変化させたり、外したり、選ばなかったりしたときにも、その存在や、その後のつながりを認識から消してしまわないこと」と言えるかもしれない。ただし、ここで循環を価値の基準にしてはいけない。 循環への寄与が小さなもの、孤立しているもの、何も生み出していないように見えるものでも、それによって尊重の程度が下がるわけではない。役に立つから尊重するのではない。循環に貢献するから尊重するのでもない。 「尊重」と「価値評価」と「処遇」は別の問題として考えたほうがいいのだろう。 もう一つ問題になるのが、ホロンの境界である。どこまでが「自分」で、どこからが「外」なのか。皮膚を境界と考えることはできる。しかし、人間の身体は腸内細菌と共生し、大気から酸素を取り込み、食物や水を絶えず外から取り入れている。社会や文化や他者との関係まで含めれば、「自分」の境界はますます曖昧になる。しかし、前にも書いたが、そもそもホロンの境界は曖昧なものなのではないか。そのホロンを包んでいる、さらに大きなホロンの状態や、どんな問題を考えているかによっても境界の意味は変わる。だとすれば、「本当の境界はどこか」を決める必要はない。 現実に何かを考えたり判断したりするためには、ある範囲をひとまず一つのホロンとして扱わなければならない場合があるから「一時的境界」を決める。「ここが絶対的な境界だ」と決めるのではない。「いま、この問題を考えるために、ひとまずここに境界を置いてみる」。状況が変われば、境界も引き直せばいい。 これは以前から考えてきた「一時的決断」とよく似ている。すべてのホロンと、その関係を把握してから決断することなど誰にもできない。だから、その時点で見えている範囲で一時的に決断する。そして結果を見て、必要なら決断を変える。境界も同じだ。一時的に境界を置き、一時的に決断し、その結果を見る。そして必要なら境界を引き直し、また考える。 ここまで考えて来たとき、「循環」だけでは少し足りないことにも気づいた。同じ問題について考え、いったん離れ、また同じところへ戻ってくることがある。しかし戻ってきたとき、以前とまったく同じ場所にいるわけではない。今回も、ホロンの境界が曖昧だという話は以前にも考えていた。それでも循環について考えた後でもう一度そこへ戻ってきたことで、「一時的境界」という新しい概念が生まれた。一周して戻ってきたけれど、少し違うところにいる。 これは単なる円ではなく、螺旋に近い。「循環+変化=螺旋」と考えることができるかもしれない。ただし、螺旋を「進歩」と同じ意味にはしたくない。螺旋は上昇するとは限らない。下降することも、横へ進むこともある。 だから、ここでいう螺旋とは、「同じところには戻らない循環」くらいに考えるのがいいだろう。世界にはたくさんのホロンがある。その境界は固定されていない。ホロンの内側にも外側にも循環があり、ある循環から外れたものは別の循環へ移っていく。その動きをすべて把握することはできない。だから一時的に境界を置き、一時的に決断し、その結果を見て、また境界を引き直す。その繰り返しの中で、考えそのものも変わっていく。円を描いて元へ戻るのではない。ぐるぐる回りながら、少しずつ違う場所へ移っていく。 全ホロン尊重という考えそのものも、そうやって螺旋を描きながら変わっていくものなのかもしれない。 |
| 2026/5/12 4:19 |
『太一〜UFOに乗った少年』Blog
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米国防総省がUAPファイルを公開
Enjoy! |
| 2026/5/11 14:45 |
『太一〜UFOに乗った少年』Blog
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映画『ディスクロージャー・デイ』7月10日公開
ついに公開されますね。スピルバーグ監督の『ディスクロージャー・デイ』。 どんな内容か楽しみにしています。 |
| 2023/12/29 1:15 |
『太一〜UFOに乗った少年』Blog
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震電の復活
映画「ゴジラ-1.0」を見てきました。 望月さんはお父様の遺品を紐解くことで、かつて震電の開発に携わっていたことを知ったそうです。生前は戦時中に何をしていたのか話したことがなかったとか。 1.震電は開発されるも、完成後すぐに終戦となり、テスト飛行のみで実戦には投入されなかったこと。 2.その画期的なスタイル。プロペラが後部にあるのです。 3.戦後、一機がアメリカにわたり、野晒しにされ、ボロボロになってしまったこと。 そんなことを知っていたので、映画「ゴジラ-1.0」の中で震電が優美に飛ぶ姿を見て泣きました。望月さんのお父様が見たら喜んだろうなと思って。 |
| 2023/9/16 4:03 |
『太一〜UFOに乗った少年』Blog
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ペルーのナスカ地上絵の近くで発見された宇宙人の遺体?
2023年9月14日にテレビのニュースで報じられて驚いた。 1.発見された時の状況が何も説明されていない。 以下はANNのYouTubeにある説明を転載。 メキシコ議会で初めてUFO=未確認飛行物体に関する公聴会が開かれました。そこで公開されたのが小さな遺体とされるもの。目は大きく、細長く伸びた後頭部。その姿は宇宙人を連想させます。こちらを公開したのはUFO研究家です。 UFO研究家 ハイメ・マウサン氏:「私たちが扱っているのは人間ではない標本であり、私たちの世界の他のどの種にも属さない種であることの明確な証左だと信じます」 なんと、人類ではないと証言しました。宇宙人なのでしょうか。メキシコの専門機関が調査に乗り出しました。 メキシコ議会で公開された人間ではない遺体とされるもの。2017年にペルーのナスカの地上絵の近くで発見されたといいます。メキシコ海軍の衛生科学研究所の責任者は、X線検査やDNA分析の結果、「これらに人間との関係はないと断言できる」と述べています。UFOの専門家は…。 安全な航空宇宙を目指すアメリカ人財団代表 ライアン・グレイブス氏:「未確認異常現象の解明は航空宇宙の安全において、緊急的優先事項だと私たちは信じています」 これを受けてメキシコの議員は…。 メキシコ グティエレス連邦議員:「未確認異常現象の解明の必要性に関しての議論を立法府と行われることを期待しましょう」 今月、アメリカでは国防総省がUFOに関する情報を一般に提供するウェブサイトを立ち上げました。さらにNASA=アメリカ航空宇宙局がUFOに関する独自の研究チームを設置し、研究を進めています。 |